世界の学校から

風来坊が綴る、世界の教育現場のあれこれ

日仏バイリンガル 言葉に対する意識の違い

先日、日仏バイリンガルの上の二人(16歳長女と13歳長男)が

 

  日本語ができないと日本人と言えない

 

かどうかで言い争っていた。最近、第二次日本語イヤイヤ期に突入している長男。

日本語の習得の時間を英語にかけた方がいいかと迷っている様子を長女が諭しているうちに、ヒートアップして、

 

長女「日本語出来ないと、日本人って言えなくなるよ!」

長男「日本語出来なくても、日本人だし!」

 

みたいな言い争いに…。

最後は二人に「ママ、何とかいって!」と、コメントを求められたんだけど、ノーコメントにしてしまった。正直、両方の気持ちがよく分かったので、どちらも否定したくなかった。そういえば、小さいころから二人は違ったなと思いだしていた。

 

 

 「外国人」と言われ、ひどく傷ついた娘

長女は、5歳までフランスで育ち、それから日本に戻り、小学校3年生の途中まで、普通に日本の保育園、公立学校に通った。保育園では、「フランス人」ということをみんなに前向きにとらえてもらい、自分のもう一つのルーツをとても誇りに思っていた様子だった。ところが、小学校に入ってそれが一変した。

 

「ママ、私に日本の名前を付けてくれてありがとう」

 

と、学校から帰ってくるなりいう娘。

なんでも、学校で隣のクラスの男の子が教室をのぞいて、「このクラス、外人何人?」

と言っているのを聞いたそうだ。自分が名前の「おかげ」で、外人にカウントされなかったと胸を撫でおろしていたのだ。

因みに、この学校の学区は、古くからのお金もちの家があったり、県営住宅があったり、大学の官舎があったりして、多様な背景を持つ家庭が多かった。 なので、外国にルーツを持つ子供たちも多かった。私はそのことを快く思っていたので、心底びっくりして、

 

「外人と言えば、まあそうじゃない?これまでだって、保育園でフランス人って言われてきたじゃない?今までは嫌じゃなかったみたいだけど?」と聞いた。

「フランス人と言われるのはいい。でも、外人は嫌!」と娘。

 

小1にしてそのようにはっきり違いを感じる娘の繊細さに驚いた。その後、少しずつ慣れていったものの、この子は将来自分のルーツを強く意識するだろうな、その時、「ことば」が、自分なりの答えを出すのに必要だろうなと思って、これまで日本語を教えてきた。

 

日本の学校でフランス語で説明した息子

 一方長男はというと…ある意味、「地球人」といった感じで、国籍とか言葉とかに全くこだわらず、必要なら何語でもコミュニケーション取ればいいんじゃない?というのが小さいころからあった。

 

息子は、小学校1年からまたフランスに戻ることになったのだけど、夏休みは毎年、日本の学校に体験入学していた。そこでの算数の時間の話。

 

「今日、算数でどうやってこの問題を解くのかというのがあって、僕わかったんだけど、日本語では説明できなかったの。それで、先生がフランス語でもいいよって言ったから、黒板に絵とかかきながら、フランス語で説明した。」

「え?フランス語だったら、みんなわからないじゃん。」

「うん、でも、絵もあったし、先生も付け足ししてくれたから分かったみたい。」

とケロッとしてる。

それを横で聞いていた娘は、

「フランス語で説明してなんて、馬鹿にされているのわからないの?ひどい先生。それに、そうやって話してとか言われて、話したらかっこつけているとか言われてあとから意地悪されるんだよ!」

と激怒。

長女の言っていることもわかったんだけど、ただただ、コミュニケーションをとることに徹している息子をすごいなと思ったのを覚えている。

 

 

我が家の子供たちにとっての日本語

結局、今もそれぞれにとっての言葉の意味合いが、あまり変わらないのかなと思う。日本語は、

 

  長女にとっては、ルーツを証明するもの

  長男にとっては、情報収集のツール

 

どちらもいいよなと、思う。