「ト、キ…?あ、わかった、このおばあさんの名前はトキなんだ!」
初めて覚えたカタカナで、世界が広がった5歳の娘の瞬間だ。
ちょうどひらがなをほぼ全部読めるようになり、どこからか片仮名の存在を知り、自分から片仮名を教えて欲しいと言い出した娘。
まだ早いかなと思いながらも、自分の名前のカタカナだけ教えてあげた。
その晩、読み聞かせてもらうのを待ちながら、本を眺めているうちに、覚えたての3つのうち、2つを使われている名前を発見したのだ。
目をキラキラさせて、「ママ、教えてくれてありがとう。おかげで、このおばあさんの名前わかったよ!!」と言う娘に、これぞ母親、教師冥利に尽きると喜ぶ私。
で、また、いろいろこのことから考える「内省型」の私(笑)
学校教育の中ではなかなかできないけど、この
子供のペースで学べる
やりたい欲求が出てきたときに教える
に勝るものはないなと。
とはいえ、この意図的計画的に教えることがあるからこそ、日常生活の中でいろんなことが目に入り、刺激を受けるのだとも思うのだ。
例えば、外国に暮らす今、「継承語としての日本語教室」に行ってなければ、ひらがな、片仮名という存在に自然に出会うことはなかった。
また、その教室で系統的に「書く」という勉強しなければ、
書けるようになりたい、自分でも書ける
と気づくのは、ずっと遅かったと思うのだ。
そして、日常的に本に触れてなければ、その学びの目に水や太陽を浴びて、伸ばす機会もなかったわけだ。
意図的に教えること と 偶発的な学び励まし支えること
の大切さを改めて思うとともに、それができるのは、やはり親と教師だけなんだなと思う。結果的に、それがどう子供に引っかかるかは、誰にもわからない。