世界の学校から

風来坊が綴る、世界の教育現場のあれこれ

海外補習校で求められる国語教育とは

結論から言うと、日本の教科書に沿ってやるにしても、

  日本の国語とは違う

って考えた方が良いと思う。

日本の国語は、人物の気持ちの移り変わりを懇切丁寧に追ったり、筆者の意図をああでもない、こうでもないって考えたり、

  精読

を目指すけど、ざくっと内容を捉えたら、

  文章全体の構成

  押さえておきたい手法、文法

に集中したほうがいい。

 

と、改めて考えたのは、少し前に、以前勤めていた補習校の同僚が研究授業の様子を写したビデオと指導案を送ってくれたからだ。「ぜひコメントを」という身に余る光栄にワクワクしながら目を通させてもらった。

 

単元の目標、教材観、児童観など、日本の指導案の書き方を上手に

  ツールとして活用

して、的確に子供把握して授業を組み立てている様子が、指導案から手に取るようにわかってただただ感心するばかりだった。

ところが、本時の展開のところになって、私の頭に?????がたくさん浮かび始めた。どうして、この単元計画から、この本時の展開になる? と。

ビデオを見ると、当然、授業は一部の「日本から来ている国語がよくできる子供たち」を中心に展開していて、すごく内容を深めてはいるのでけれども、最後にはその子たち、先生すら、「迷子」になってしまっている様子。

 

本人に、直接、この質問をぶつけてみたら、なるほどと思わず笑ってしまった。

  最後、期間限定で日本から来ている校長先生が、本時のみを指導したから

 これは補習校の抱えるジレンマだと思う。

日本から来た校長先生は、日本の国語教え方を補習校の先生たちに指導するのが仕事だと思っているし、実際そこから学ぶことも大変多い。補習校の先生は、他に指導法を学ぶ場がなかなかないので、本当に藁にもすがる思いでそれを聞く。

ここで、海外で育つ子供の実態をよくわかっている現場の教師と国語の指導法に通じている管理職にギャップが生じるのだ。

 

でも、この子供たちにこの国語教育をしようと思っても、

  文化的背景

  かけられる時間

  日本語力

があまりにも違いすぎて、やればやるほど子供嫌いになる。

 

なので、現場の先生が自分の力を信じて

  いかに精選するか

が、補習校での国語教育の成否を問うのではないかと思う。

言うは易し…だが。